日本には、私たちがまだ十分に知らない素晴らしい犬種が存在します。その代表格とも言えるのが、鹿児島県を中心に受け継がれてきた薩摩ビーグルです。
一般的なイギリス原産のビーグルとは一線を画す、その独特な歴史と風貌、そして驚くべき身体能力。
この記事では、絶滅の危機に瀕しながらも、熱心な保存活動によって現代に繋がれている薩摩ビーグルの魅力を、余すことなくお伝えします。
薩摩ビーグルを知ることは、日本の狩猟文化や武士道の歴史の一端に触れることでもあります。
単なる「ペット」としてではなく、「日本の生きた文化遺産」としての彼らの姿を紐解いていきましょう。
もくじ
薩摩ビーグルとは?その起源と歴史的背景
薩摩ビーグルは、鹿児島県(旧薩摩藩)で古くから愛されてきた実用猟犬です。
その名に「ビーグル」と付いているため、西洋のビーグルがそのまま日本に来たものと思われがちですが、そのルーツは非常に興味深いプロセスを経て形成されました。
明治維新の前後、イギリスから持ち込まれたビーグルやハリアなどの洋犬と、当時から鹿児島にいた土着の猟犬が交配され、日本の山岳地帯での狩猟に最適化されたのが始まりとされています。
特に「野ウサギ狩り」において圧倒的な能力を発揮するように改良されました。
西郷隆盛と薩摩ビーグルの深い絆
薩摩ビーグルを語る上で欠かせないのが、幕末の志士・西郷隆盛の存在です。
西郷隆盛は大の犬好きとして知られていますが、彼が連れていた犬の多くが、この薩摩ビーグルの系統であったと言われています。
上野の西郷隆盛像と一緒にいる犬「ツン」は、実は薩摩ビーグルの雌犬がモデルであるという説が有力です。
西郷が狩猟を通じて心身を鍛え、犬たちと山を駆け巡ったエピソードは、この犬種がいかに薩摩の男たちの精神性と密接に関わっていたかを物語っています。
絶滅の危機と保存活動の現状
かつては鹿児島県内で広く飼育されていた薩摩ビーグルですが、第二次世界大戦や食糧難、さらには海外犬種の普及により、その数は激減しました。
一時は「絶滅した」とさえ言われた時期もありましたが、一部の愛好家や保存会の懸命な努力により、今日までその血統が守られています。
現在もその頭数は非常に少なく、「幻の犬」と呼ばれるほど希少な存在です。血統を維持し、次世代へ繋ぐための活動は、今この瞬間も続けられています。
薩摩ビーグルの特徴:身体的特徴と能力
薩摩ビーグルは、一見すると洋犬のビーグルに似ていますが、細部を見ると日本独自の進化を遂げたことがよく分かります。その最大の特徴は、「実戦向け」に特化した無駄のない体躯です。
薩摩ビーグルの主な身体的特徴を以下の表にまとめました。
| 項目 | 特徴 |
| 体格 | 中型犬(洋犬のビーグルより一回り大きく、脚が長い) |
| 体重 | 約15kg 〜 25kg 程度 |
| 耳 | 垂れ耳(ビーグルよりはやや短く、厚みがある) |
| 尻尾 | 立ち尾(力強く上を向いている) |
| 被毛 | 短毛で硬い(汚れが落ちやすく、藪の中でも傷つきにくい) |
| 毛色 | 白、黒、茶の三色(トライカラー)が一般的 |
薩摩ビーグルは、日本の険しい山々を長時間走り回るためのスタミナと、急斜面を駆け上がるための力強い四肢を持っています。
洋犬のビーグルが比較的コンパクトで可愛らしい印象を与えるのに対し、薩摩ビーグルはより精悍でアスリートのような佇まいをしています。
独特の「吠え声」と追跡能力
猟犬としての最大武器は、その「鳴き声」にあります。薩摩ビーグルは、獲物を追跡している最中に独特の甲高い声で鳴き続けます。
これは「鳴き込み」と呼ばれ、ハンターに獲物の位置を知らせる重要な役割を果たします。
その声は非常に通りが良く、遠く離れた山の中でもはっきりと聞き取ることができるほどパワフルです。
この特性は、家庭で飼育する際には「無駄吠え」の対策として、飼い主がしっかりとコントロールすべきポイントとなります。
薩摩ビーグルの性格:忠誠心と自立心の共存
薩摩ビーグルの性格を一言で表すと、「非常に忠実で情熱的」です。しかし、そこには日本犬特有の「主人以外には簡単に心を開かない」というクールな一面も混ざり合っています。
家族に対する深い愛情
一度主人と認めた相手に対しては、驚くほどの忠誠心を見せます。家族と一緒に過ごすことを好み、感情表現も豊かです。
普段は穏やかで落ち着いていますが、一度「仕事(遊びや散歩)」となると、非常にエネルギッシュな姿を見せます。
この「オンとオフの切り替え」の鮮やかさは、薩摩ビーグル特有の魅力と言えるでしょう。
高い知能と判断力
猟犬として単独、あるいは数頭で獲物を追い詰める役割を担ってきたため、自分で状況を判断する能力に長けています。
これは裏を返せば、「納得がいかない命令には従わない」という頑固さに繋がることもあります。
単に厳しくしつけるのではなく、犬との信頼関係を築き、「この人の指示に従うことが一番の喜びだ」と思わせるようなリーダーシップが、飼い主には求められます。
他の動物や子供との相性
基本的には社交的な性質を持っていますが、小動物(ハムスターやウサギなど)に対しては、強い狩猟本能が働いてしまうことがあります。
また、非常にパワフルなため、小さなお子様がいる家庭では、意図せず押し倒してしまうなどの事故が起きないよう、注意が必要です。
幼少期からの社会化トレーニングを徹底することで、非常に聞き分けの良い、頼もしいパートナーになってくれます。
薩摩ビーグルの飼い方:必要な環境とケア
薩摩ビーグルを家族に迎える場合、一般的な室内犬と同じような感覚では、犬も飼い主もストレスを抱えてしまう可能性があります。
彼らの溢れるエネルギーを正しく発散させることが、幸せな生活の第一歩です。
運動量:毎日が「冒険」であること
薩摩ビーグルにとって、散歩は単なる排泄の時間ではありません。彼らにとっての散歩は、知的好奇心を満たし、体力を発散させるための「狩りの代わり」です。
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時間: 1日最低2回、各1時間以上。
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内容: 単調なウォーキングだけでなく、起伏のある道を歩いたり、ドッグランで思い切り走らせたりすることが理想的です。
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工夫: 匂いを嗅がせる「ノーズワーク」を取り入れると、脳が刺激され、非常に満足感が高まります。
運動不足は破壊行動や過度な要求吠えの原因となります。「疲れさせた犬は良い犬だ」という言葉がありますが、薩摩ビーグルにはまさにこの格言が当てはまります。
しつけのポイント:根気と信頼関係
薩摩ビーグルは知能が高いため、トレーニング自体はスムーズに進むことが多いです。ただし、一度「この人は自分より下だ」と判断されると、指示を無視するようになります。
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ポジティブトレーニング: できたことを大げさに褒める「加点方式」が向いています。
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一貫性のあるルール: 家族全員でルールを統一し、犬を混乱させないようにしましょう。
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呼び戻しの徹底: 狩猟本能が刺激されると、何かに集中してどこかへ行ってしまう可能性があります。ノーリードでの散歩は厳禁ですが、万が一のために「呼び戻し(おいで)」は完璧にしておく必要があります。
室内飼いか屋外飼いか
かつては屋外で飼育されることが一般的でしたが、現在は室内での飼育を強く推奨します。
薩摩ビーグルは非常に寂しがり屋で、家族のそばにいたいという欲求が強い犬種です。
外に繋ぎっぱなしにされると、精神的なストレスから吠え癖が悪化したり、攻撃的になったりすることがあります。
室内で十分なコミュニケーションを取りながら、寝る時や留守番の時だけケージを使うなど、メリハリのある生活を心がけてください。
薩摩ビーグルの健康管理と寿命
薩摩ビーグルは非常に丈夫な犬種であり、特定の遺伝性疾患が極端に多いわけではありません。しかし、その身体的特徴や希少性ゆえに気をつけるべき点があります。
平均寿命
薩摩ビーグルの寿命は、約12年 〜 15年程度と言われています。中型犬としては標準的ですが、適切な健康管理と運動習慣があれば、さらに長生きするケースも少なくありません。
注意すべき病気と症状
日々の生活の中で、以下のポイントに注意を払ってください。
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外耳炎: 垂れ耳のため、耳の中が蒸れやすい傾向があります。週に一度は耳掃除を行い、赤みや臭いがないかチェックしましょう。
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肥満: 非常に食欲旺盛な個体が多いため、運動不足になるとすぐに太ってしまいます。肥満は関節や心臓に負担をかけるため、体重管理は徹底してください。
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関節疾患: 激しい運動を好むため、加齢とともに股関節や膝に負担がかかることがあります。滑りやすいフローリングにはマットを敷くなどの対策が有効です。
食事の管理
筋肉質な体格を維持するために、高タンパクでバランスの取れた食事が必要です。
猟犬としてのルーツを考えると、ドライフードだけでなく、鹿肉や馬肉などの生肉をトッピングしてあげることも、嗜好性と栄養面の両方でメリットがあります。
薩摩ビーグルを入手するには?
薩摩ビーグルは、ペットショップで簡単に見つけることができる犬種ではありません。
その希少性から、入手までにはかなりの時間と努力、そして「この犬種を絶やさない」という強い意志が必要になります。
専門ブリーダーや保存会を探す
現在、薩摩ビーグルの繁殖を行っているのは、鹿児島県内を中心とした極少数のブリーダーや「薩摩ビーグル保存会」の方々です。
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インターネットでの情報収集: 常に最新の情報をチェックし、子犬が生まれるタイミングを把握する必要があります。
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直接問い合わせ: ブリーダーの方に、自分の飼育環境や犬に対する想いを伝え、譲り受けられるかどうかを相談します。
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里親募集: 稀に、家庭の事情などで里親を探している成犬の情報が出ることがあります。
入手にあたっての覚悟
薩摩ビーグルの子犬を迎えることは、単に犬を買うこととは意味が異なります。あなたは「日本の伝統的な血統を守るプロジェクト」の参加者になるのです。
ブリーダーによっては、将来的に繁殖に協力することや、保存会の活動に参加することを条件とする場合もあります。
価格面だけでなく、そうした社会的・文化的な責任を理解した上で、申し込みを行ってください。
よくある質問
薩摩ビーグルを飼いたい、もっと知りたいという方から寄せられる、よくある質問をまとめました。
Q:マンションでも飼うことはできますか?
A:不可能ではありませんが、ハードルはかなり高いと言わざるを得ません。最大の問題は「声」と「運動量」です。薩摩ビーグルの通る声は集合住宅では騒音トラブルになりやすく、徹底した防音対策としつけが必要です。また、毎日数時間の運動時間を確保できる環境が必要です。
Q:初心者でも飼いやすい犬種ですか?
A:正直に申し上げると、初めて犬を飼う方にはあまりおすすめできません。 猟犬としての本能が強く、独自の判断で動く傾向があるため、犬の行動学を理解し、適切にリードできる経験者が望ましいです。もし初心者が迎える場合は、プロのドッグトレーナーのサポートを受けることを強く推奨します。
Q:普通のビーグルとの一番の違いは何ですか?
A:最も大きな違いは、「日本の風土への適応力」と「体格の精悍さ」です。薩摩ビーグルは脚が長く、山岳地帯を走ることに特化しています。また、洋犬のビーグルに比べて、主人に対する忠誠心がより深く、一方で初対面の人への警戒心がやや強いという、日本犬的な性質を持っています。
まとめ
薩摩ビーグルという犬種について、その歴史から飼い方まで詳しく見てきました。ここで、重要なポイントを5つに整理します。
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薩摩ビーグルは、薩摩藩の猟犬と洋犬が交配され、日本の山岳地帯に最適化された希少種である
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西郷隆盛も愛したと言われるほど、高い忠誠心と忍耐強さを兼ね備えている
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アスリートのような体躯を持ち、毎日2時間以上の激しい運動と刺激を必要とする
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絶滅の危機に瀕しており、入手には専門の保存会やブリーダーとの繋がりが不可欠である
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「鳴き込み」という独特の吠え声を持つため、飼育環境には十分な配慮が必要である
薩摩ビーグルを家族に迎えるということは、日本の歴史の一端を背負い、その素晴らしい血統を未来へと繋いでいくという誇り高い行為でもあります。
決して楽な道のりではありませんが、彼らが見せる深い信頼と、山を駆けるその美しい姿は、何物にも代えがたい喜びを与えてくれるはずです。
もしあなたが、この「幻の日本犬」と共に歩む覚悟をお持ちなら、まずはその歴史を深く学び、保存活動を行っている方々の声に耳を傾けることから始めてみてください。
薩摩の地で育まれた不屈の精神を持つこの犬種は、あなたの人生に、言葉にできないほどの深みと感動をもたらしてくれることでしょう。




















